20年近くの引きこもりから脱却し、生活のための仕事と引きこもりの支援活動
をしている方についての特集記事を読む機会があった。今社会問題になっている
ということで、いろいろな記事を目にする。

いろいろな複雑な環境や背景があると思う。

共通していることはなんだろうと時々考えることがある。

そこには、無関心=無愛 があるのだろうか。

愛を受けていない人は、他の人へ愛を示すことは容易ではないだろう。

親が子へ愛を示し、愛を受けた子は、愛を示す子へと育っていくことが理想で
あるだろうが、愛を受けていない親は、子を愛することができない場面が多いだろう。

これは、学校や職場でも同じことになり、先生や生徒の間でも、間違った愛の示し方
や無関心につながっていく。そしで、最悪の場合、それがいじめなどの攻撃と代わって
しまう。

このようなことを考えていると、私自信にとっても反省する機会となり、子供たちに
対して、しっかり話を聞いていない自分を思い浮かべた。こちらから話をしたり、意見
を言ったり、教えることは多くあるが、子供たちに話をさせる機会を与えていないのでは、
と考え込んだ。

子供たちの自主性をあげてほしいがゆえに、ぐちぐち言うのだが、逆効果となってしまい、
萎縮させたり、言われたことをやり考えることがなくなってしまうようにしてしまって
いたかもしれないと反省した。

顕著にでている次男を犬の散歩に夕方連れ出し、20分間程トライしてみた。

次男に質問をしても、単語でしか返ってこないことが多いのだが、この日は、質問の深追い
をすることを我慢して試みていると、だんだんと文章を構成して長い文章で話をしてくれる
変化に会うことができた。

神様は目に見えないが、周りを見ると、私たちが神様の中に生きていることが分かり、そして、
どれだけ神様に助けられ教えられ恵を受け、愛されているかが目を開けると見える。そして、
この受けている愛が分かると、他の人へ愛を示すことは、簡単ではないが、努力する価値が
あることに気づかされる