私がキリスト教を信仰することになった一番のきっかけは、出会った宣教師の老夫婦が今まで出会ってきた人たちと全く違ったからである。まさしく、私を全くさばかない。話をしていても、何か和むし、安心できた。シーンとしている時間も平安だった。

そして、むしろ愛をもって接してくださった。愛とは、自分を犠牲にし、相手のために尽くすこと。出会ってから、日本語がつたない妻にいつも声をかけ、必要な時にいつも助けてくださったし、料理が下手だった私達を、いつも家に招いてくださり、手作りの食事をくださった。

いつも変わらなかった。そこで、キリスト教のお話しも、こちらが聞く気分があればしてくださったので、押してくることもなかった。しかし、神の話をしてくださるときは、とても熱心で力強かった。

この方々の人柄を通して、この人たちが信じる神イエス様とは、、、きっと素晴らしいと、自然に体にインプットされ、そのまま信仰に入っていった。

新約聖書を読んでいると、イエス様は全く人を裁かなかったことがわかる。むしろ、愛をもって、どんな人にも、特に罪におぼれている人に近づき、一緒に食事をしたり、時間を過ごし、その中で、神の話をし、多くの人がイエス様を信じ、回心をしている。

キリスト教会の中でも、このさばきあう人間的なことが入ってしまわないように、最善を尽くさ仲ればいけないと思う。そうしないと、教会自体が人間的な集会や会合と同じになってしまい、本来、安堵できる場所なのに、でなくなってしまうと思う。