人間的な考えと神的な考えは相反する。

最近になって理解できたことがある。それは、行いの良し悪しによって、神から受ける恵みに違いはないということである。人間的な考えは、良い行いをすると、良いお恵みが神からあると考え、悪い行いをするとお恵みがなくなると考える傾向が強い。しかし、神の恵みは絶対的であり、神の一方的な無償なる愛を持たれた行為であり、人間のちっぽけなけちな考えに収まらないのである。神からすれば人間の行いなど、全く砂が地面で少し動くようなもの。律法との絡みもあるだろう。神の愛は、我々人間のレベルをはるかに超えて大きく、広い。

ただし、ここでいう良し悪しの悪いは、罪でないこと。罪を犯せば、必ず、報いは帰ってくるし、良い事をすればそれも必ず報いは帰ってくる。神は公平であり、全ての人間に対し、規定に従って同じ報いを導かれる。

ここで、定義として報いと恵みは違うもの。報いは自分に帰ってくるもの。恵みは、救いである。
恵みは、新約に、イエスキリストによってもたらされた素晴らしい永遠なるもの。ここは旧約の時代と違うし、ユダヤ人への神の対応の違いがある。聖書を読むとき、旧約のユダヤ人に対するものを見て、それが今のクリスチャンに同じように適用されると考えるのは、危ない。旧約は律法の考えが、新約はこの律法を超えられたイエスキリストの恵みが輝いている。

行いによって、私達は、神に属する実をもつことができる。行いによって、私達の表面や内面に、愛、喜び、平安、親切、善意、寛容、誠実、柔和、自制といったものを築いていくことができる。これによって、クリスチャンのレベルが神によって計られる。

見返りを求めて善い行いをすると、裏に真の愛がないため、この実は多くは得られない。偽善である。

良い行いをしないといけない、といった受け身で善い行いをすると、同じように実は多く得られない。

自分を犠牲にし、ただ、人のために先ほどの実に沿った気持ちでよいことをすると、それが実となるのである。

今多くの教会で、この律法的な考えがあらゆる場面で大小関わらず適用されている例がよく見られる。本来、イエスキリストの恵みが一番輝かなければならないのに、なぜか人間的な行いや義務といったものが律法的に前にでてきてしまっているようにみえてしょうがない。これでは、人間的な集いや、はたまた規律をもった会社や学校と変わらない。

日本のクリスチャン人口が全く増えていかない要因のひとつにこれがあると考える。