日々の中で、本来やりたいと思っていた正しいことができなかったり、思い通りに良いことや
親切なことができず、疑問に思ってしまうことがある。

ムリヤリ良いことをする選択もできるが、
その時、心がついてこず、偽善となって終わり、何だったんだろうと終わってしまう。

この心の中にある、自分の意に反しようとする勢力は、対象となるものに反抗をし、自分を中心
に置いたり、上の層に置いたりすることが真の目的である。

例えば、仕事を一生懸命やって、良い結果を出し、上司にも喜んでもらいたいというのが本音であるが、
いざその仕事をやると、一生懸命できずに、むしろ悪い結果がでるようにあやつり、上司が残念
がったり、ダウンするのを見て、喜んでしまうといったことがあるだろう。

そこには、自分がその上司を支配したい、自分が中心になりたいといった、曲がった欲によるもので
ある。立場上、自分が従う立場で下の存在であり、上司を支配できないので、このような曲がったやり方で、
あたかも上司の心情を支配しているかのように捻じ曲げる。

親に反抗する子供の心情は近いものがある。

例え、その存在に気付いたとしても、回復させることは、できるのだろうか。

パウロも聖書の個所で、同じようなことを言われている。そして、その存在がいつまでも一緒に
いることを認められている。


イエス様は、聖書で、一番強い癒しの力は、愛と信仰といわれている。

私は、この愛の力にこそ、心の中にある醜いものを弱くさせるものがあると思う。愛はすべての
悪いものを打ち消してしまう力があると思う。

話が一気に大きくなってしまうけど、社会にある人的な問題が発生する要因のひとつrに、
、この愛が家族間であったり、友達間であったり、仕事の中であったり、不足しているからだと思う。
そして、これらの問題を抱えている人々へ愛が注がれるときに、回復は別として、心の傷はいやされる
と思う。

教会のひとつの役目として、この愛が兄弟姉妹間で実行され、お互いにお互いを癒し合うことが
あると思う。