エレミヤ書6章18~21
それゆえ、諸国の民よ。聞け。
会衆よ。知れ。彼らに何が起こるかを。
この国よ。聞け。見よ。わたしはこの民にわざわいをもたらす。
これは彼らのたくらみの実。
彼らが、わたしのことばに注意せず、わたしの律法を退けたからだ。
いったい、何のため、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。
あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、あたながたのいけにはわたしを喜ばせない。」
それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはこの民につまずきを与える。父も子も共にこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」

旧約聖書で、ユダヤ人に対し直接的に教えられている部分である。神の民であるはずのユダヤ人は、神に対し、全く高ぶり、神の言葉や教えを自分達の都合の良いものに変え、好き勝手なことをしていた。神にとって、彼らの信仰はなきに等しい。そんな彼らの神に対する礼拝は、シェバから最高級の乳香や菖蒲を持って形式的には素晴らしいものであったと思われるが、彼らの心は全く純粋で聖なる神から離れていた。神は、そんな彼らの神への礼拝を忌み嫌う。そして、神は、彼らの悪い心と行いに気づかせ心を低くさせ、悔い改めさせるために、痛みを与えることを誓う。

これは、現世の人たち、またクリスチャンにも霊的に適用される箇所である。
もし私たちが、あまり親しくない、いやむしろ毛嫌いしている人たちから何かプレゼントをいただいた時、どういう気持ちになるだろうか。(クリスチャンの場合、毛嫌いする人をもっていること自体が良くないことだが。なぜなら聖書によると自分の利己を求め、相手の気持ちや状態を洞察できていないのに自分の状況や状態で裁いてしてまっているから。)全然うれしくないだろう。むしろ、返したい気持ちになるかもしれない。

神は当時のユダヤ人に対して同じ気持ちを持たれた。自分のことを心では裏切っているのに、表面上は神を慕うふりをし捧げものを持ってくる。

神は絶対的な聖と正を自分の正当なる民ユダヤ人に求められていたので、彼らの心を自分に立ち変えさせるために怒りに変わる。

クリスチャンもまた、神の民に受け入れられたが、ユダヤ人の律法の土台とは違う。クリスチャンの土台はイエスキリストのお恵みである。しかし、神は、当時も今も同じ神である。本質的に、クリスチャンに対しても、イエスキリストにより律法の行いは求められないが、神への愛と信仰を求められる。

そして、それが、神に対し、霊的な良いかおりの捧げものとなるのである。

クリスチャンがイエスキリストから与えられている使命の本質は、信仰と愛。新約聖書からは、なぜそれを行わなければいけないのか、教えがたくさんある。旧約聖書からは、場面こそ違うが、霊的な場面や環境はユダヤ人と重なり、特に神の絶対的な栄光・尊厳・見栄・威厳からクリスチャンとしてのあるべき姿を教えられることができることは素晴らしい。